アレッツォ観光ガイド
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アレッツォ再発見とは?
アレッツォ観光ガイドとは?
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※写真・イラストは全てイメージです。ご旅行中に必ずしも同じ角度・高度・天候での風景をご覧いただけるとは限りませんのでご了承ください。
アレッツォの再発見機淵リバルディ通りの周辺)
「フィレンツェ門」とも呼ばれたサン・ロレンティーノ門は、16世紀のメディチ家時代に築かれた城壁の4つの城門の一つでした。1644年の改築工事の際に、14世紀の司教グイド・タルラーティ時代から城門に飾られていた石像「聖母子」(国立中世・近代美術館所蔵)が撤去されました。右側のアーチ門から入ると見えるサン・ロレンティーノ砦の建設中(1553年)に、エトルリア文明の象徴である青銅像「キメラ」が発見されました。

地区の名前になっている「ポルタ・デル・フォロ」の城門は、古代ローマ時代の公共広場があった町の高地、現在のプラート公園の近くにありました。この古い城門の代わりとして、13世紀に新たに建てられたのがサン・ロレンティーノ門です。

17-18世紀当時、死刑囚の引き回しの行列がサン・ロレンティーノ門を通ったことから、「絞首刑のフィレンツェ門」とも呼ばれていました。現在の城門の外観は、1932年の修復時のものです。砦内の部屋は「ジョストラ・デル・サラチーノ」の参加4地区の一つである、ポルタ・デル・フォロ地区の本部に使われています。ポルタ・デル・フォロ地区は、旧市街地の北西方面を占める地域です。
サン・ロレンティーノ門の砦
サン・ロレンティーノ門の砦(1930年代初期)
メディチ家城塞の修復工事の一環でギアッチャイア稜堡の発掘作業中に、古いサン・タンジェロ門が発見されました。この発見は、サン・タンジェロ教会のすぐ近くに町への出入り口があったという重要な意味を持っています。

城門からは大天使聖ミカエルが足元のドラゴンに向けて剣で一撃を加える彫像が発見されています。この発見はアレッツォで発見されている数少ない彫刻の中で、14世紀の彫刻を証言する非常に重要なものです。司教グイド・タルラーティ時代に築かれた城門(サン・ロレンティーノ門、ブイア門、サン・クレメント門)から発見されている「聖母子」像(国立中世・近代美術館所蔵)以上に、この「大天使聖ミカエル」像(国立中世・近代美術館所蔵)は生き生きとした躍動感あふれる最高の彫像と言われています。

さらにフィレンツェ共和国、聖ピエトロの鍵、フィレンツェ民衆の紋章3つも発見されています。これらの紋章の起源は、1384年以降の時代に遡ります。
国立中世・近代美術館
国立中世・近代美術館
1588年に完成したサンティッシマ・アヌンツィアータ女子修道院は、1551年に建物の設計がジョルジョ・ヴァザーリに委ねられましたが、建設工事中に改ざんされました。サンティッシマ・アヌンツィアータ教会の横に建つかつての修道院の建物は、1840年にサンタ・カテリーナ寄宿学校となり、1938年以降は地方公共団体職員全国社会保険協会(INPDAP)が置かれています。第二次世界大戦中の爆撃で建物は激しい損傷を受け、現在は2つの様式が混ざった回廊付き中庭と、聖クリストフォロに捧げられた礼拝堂のみが無傷で残っています。礼拝堂は既に14世紀に存在していた女子病院の一部で、15世紀に拡張されました。
かつてのサンタ・カテリーナ寄宿学校
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会
かつてのサンタ・カテリーナ寄宿学校(1896-1900年)
サンティッシマ・アヌンツィアータ教会(13-16世紀)
サン・クリストフォロ礼拝堂には、教皇ジュリオ3世から寄贈されたパッリ・ディ・スピネッロ制作のフレスコ画「十字架上のキリストと聖人たち」(1448年)とその下絵が残っています。価値の高い様々な家具が置かれた迎賓の間には、「ロザリオの謎」(17世紀)が描かれた15枚のガラス絵が保存されています。建物裏手には、並木に囲まれた大きな公園もあります。

1485年から建設工事が始まったサンタ・キアラ・ノヴェッラ修道院は、ナポレオンに破壊される1810年まで華やかな時代を生きてきました。修道院内にはジョルジョ・ヴァザーリとバルトロメオ・デッラ・ガッタの作品が飾られていましたが、現在は全く残っていません。

破壊された修道院跡にグラナーティ・ガラス工場が建てられますが、蔑称「醜い修道院」と呼ばれていたように、悪い評判が立っていた元修道院の廃墟に建てられた工場は閉鎖されました。修道院と付属の教会は、1930年にカゼルマ・カドルナ兵舎を建設するために取り壊され、15世紀の貴重な回廊付き中庭さえも残さずに撤去されました。兵舎は1933年にドナート・ビッツェッリの計画を基に完成しました。
放置されたかつてのサンタ・キアラ・ノヴェッラ修道院
廃墟と化した「醜い修道院」とサンタ・キアラ・ノヴェッラ教会
放置されたかつてのサンタ・キアラ・ノヴェッラ修道院(1928年)
廃墟と化した「醜い修道院」とサンタ・キアラ・ノヴェッラ教会(左側、1928年)

ギョーム・ド・マルチラが16世紀初期に制作した大きな洗手台と石製祭壇は、14世紀に創設されたサンティッシマ・トリニタ修道会のために設計されたもので、サンティ・スビッソによって彫られました。祭壇は現在、ドゥオーモの「慰めの聖母マリア」礼拝堂に飾られています。

一方「めったに見られない荘厳な作品」と言われる洗手台(1522年)は、何世紀もの間放置され、忘れ去られてきましたが、かつての修道会があった現フランチェスコ・ペトラルカ音楽高校に今もなお保存されています。
フランチェスコ・ペトラルカ音楽高校
フランチェスコ・ペトラルカ音楽高校
修道会は1785年に、トスカーナ大公ピエトロ・レオポルドによって解散させられました。元修道会の建物の横には、サンティッシマ・トリニタ教会が建っています。
1257年に建設されたサン・タゴスティーノ教会は、身廊とそれを取り囲む2つの側廊で構成されていました。続いて1330年以前に、建物の倒壊の危険から最初の教会の全面再建が始まり、1491年に鐘塔とともに完成しました。

新しい教会の建物は非常に広く、当時町でドゥオーモに次ぐ広さを誇り、数多くの芸術作品を保有していました。18世紀に入ると、再々度の再建で教会はほぼ半分の広さに縮小され、その際にこれらの芸術作品の殆どが紛失してしまいました。

教会内部はロココ様式で修復されています。教会裏手のガリバルディ通りに立つと、新しい教会から分離された元の古い教会の一部が見えます。古い教会の内部だった場所から現教会の後陣までの距離を見ると、最初の教会の広さを容易に想像できます。
サン・タゴスティーノ教会
サン・タゴスティーノ教会(18世紀)

サン・ジミニャーノ教会の起源は中世初期まで遡り、教会を言及している最初の資料によると1030年まで遡ります。その後13世紀に再建されますが、現在の教会は18世紀半ばの改修と19世紀の修復によるものです。

教会内部は18世紀様式の良い一例で、スタッコ細工で飾られた壁と天井、中央祭壇と美しい寄せ木細工の十字架上のキリスト像は、その起源が18世紀まで遡ります。内陣には18世紀のサルヴィ・カステッルッチの油絵2枚が飾られ、後陣は建設当初のロマネスク様式の構造となっています。
フラ・レ・トッリ通り
フラ・レ・トッリ通り
教会前の小さなサン・ジミニャーノ広場は、ミネルヴァ通りの開通に伴い、1930年代に大規模な改修工事が行われ、サン・タゴスティーノ教会からポルタ・クルチフェラ(コルチトローネ)広場の地区は完全な変容を遂げました。サン・ジミニャーノ広場から2つの塔の間を通るフラ・レ・トッリ通りの坂道を上っていくと、ペッショーニ通りに通じます。
中世初期の城壁の一部だった旧サン・タンドレア門は、「ジョストラ・デル・サラチーノ」の参加4地区の一つである「ポルタ・サン・タンドレア」地区の名前になっています。ポルタ・サン・タンドレア地区はセテリア通り南側からイタリア通り、ガリバルディ通りからトレント・トリエステ門まで、さらにデッレ・ムーラ通りからコルチトローネ通り、ペッショーニ通りボルグント通り、グランデ広場までを占める旧市街地の南東地域です。
ペッリッチェリア通り
フォンタネッラ通り
ペッリッチェリア通り
フォンタネッラ通り

城門は近くにあったサン・タンドレア教会の名前から取り、教会の起源は中世初期、あるいは初代キリスト教時代まで遡ります。城門は現在のペッショーニ通りとピアッジャ・サン・ロレンツォ通りが交わる地点の頂上辺りにあったとされています。

ポルタ・サン・タンドレア地区の本部があるガリアルデ通りからフォンタネッラ通り、ピアッジャ・サン・ロレンツォ通り、ペッリッチェリア通りまで一直線に伸びる、町の南北を走る直線道路は「カルディーネ・マッシモ」街道と呼ばれていました。紀元前81年に古代ローマの将軍スッラによって破壊された後に、町の新たな幹線道路としてこの街道が再建されました。
ガリアルデ通りのポルタ・サン・タンドレア地区本部
ガリアルデ通りのポルタ・サン・タンドレア地区本部
※アレッツォ市公式サイト「Turismo - La citta' nascosta」から引用
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