アレッツォ観光ガイド
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※写真・イラストは全てイメージです。ご旅行中に必ずしも同じ角度・高度・天候での風景をご覧いただけるとは限りませんのでご了承ください。
アレッツォの教会・聖堂

アレッツォで最も重要な教会の一つであるサン・フランチェスコ教会は、特に世界美術史上最も魅力的な絵画の一つである、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1418年頃-1492年没)制作のフレスコ画「聖十字架伝説」が保存された教会としてその名が知られています。

フランチェスコ修道士たちがポッジョ・デル・ソーレの丘にあった修道院から町に移ることを許可されたのを発端に、13世紀末期から教会の建設が始まり、ジョヴァンニ・ダ・ピストイアによって計画が進められました。唯一の身廊からなる教会内部は14-15-16世紀にかけて装飾され、後陣の中央礼拝堂は1447-66年にかけてフレスコ画が描かれました。

側壁の壁龕や礼拝堂、フレスコ画は町の裕福層によって制作依頼された価値の高い作品ばかりでしたが、他の全ての教会に見られるように、残念ながらその後何世紀にも渡って損傷や略奪、破壊を受けました。

19世紀以降、バッチ礼拝堂の修復作業が何度か繰り返されますが、20世紀以降のピエロ・デッラ・フランチェスカへの再評価のおかげで、最高のスタッフと最新の技術が導入され、15年間に渡る修復作業が完了したのはつい最近のことです。1955年から教会は、最高位の聖堂(バジリカ)の称号を与えられました。

未完成のファサードは、上塗りされていない13世紀の石壁がむき出しのままになっています。教会裏手のベッケリア通りから、砂岩造りの後陣と1870年に取り壊されたフランチェスコ修道院の残骸を見ることができます。最近の発掘調査では、教会の地下墓地で考古学上非常に興味深い、紀元前6世紀から19世紀にかけて何層にも積み重なった地層が発見されています。

教会内部(53メートル×17メートル)は唯一の広い身廊から成り、側壁が壁龕や礼拝堂で装飾され、中央の床面には墓石が埋め込まれています。天井は木製の化粧屋根裏天井で覆われています。
サン・フランチェスコ教会ファサード
サン・フランチェスコ教会ファサード(14世紀)
教会裏手のベッケリア通りから見たサン・フランチェスコ教会
教会裏手のベッケリア通りから見たサン・フランチェスコ教会(14世紀)
サン・フランチェスコ教会内部
サン・フランチェスコ教会内部(14-15世紀)
中央祭壇にはマエストロ・ディ・フランチェスコ作「十字架上のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」(1250-60年)が飾られています。後陣のバッチ礼拝堂を常に支配してきたこの大きな十字架が、モチーフとしてのテーマになり、画家ビッチ・ディ・ロレンツォによって着手された(1447年)フレスコ画制作は、ピエロ・デッラ・フランチェスカによって引き継がれました(1452-66年)。
マエストロ・ディ・フランチェスコ作「十字架上のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」
ドメニコ・ペコリ作「玉座の聖母子」
後陣のバッチ礼拝堂(1447-66年)と中央祭壇のマエストロ・ディ・フランチェスコ作「十字架上のキリストとその足に接吻する聖フランチェスコ」(1250-60年)
正面玄関内側の右壁面に描かれたドメニコ・ペコリ(1480-1527年頃)作「玉座の聖母子」
教会内部の壁面にはスピネッロ・アレティーノやパッリ・ディ・スピネッロを始め、ドメニコ・ペコリ、ジョヴァンニ・ダニョーロ・バルドゥッチョ、ロレンティーノ・ダンドレア、ルカ・シニョレッリ、ニッコロ・ソッジ、ベルナルディーノ・サンティーニ、ヤコポ・ランディーノなど、アレッツォが輩出した芸術家たちの剥離フレスコ画が数多く残っています。
※Cartaria Aretina出版「Arezzo Guida」から引用

アレッツォの名門バッチ家が、1408年にサン・フランチェスコ教会の中央礼拝堂を一族の礼拝堂として利用できる許可を手に入れ、1447年にフィレンツェ出身の年老いた画家ビッチ・ディ・ロレンツォ(1368年頃-1452年)に礼拝堂の装飾を依頼しました。彼はジェノバの大司教ヤコブス・デ・ウォラギネが集大成した聖人伝「黄金伝説」(1205年)に収められた「聖十字架伝説」をモチーフにしたフレスコ画制作の作業に取りかかりますが、1452年に亡くなります。亡くなる前に彼は、礼拝堂の前壁面上部のフレスコ画「最後の審判」とヴォールトの4つの帆型壁のフレスコ画「福音史家」を描き上げました。

ピエロ・デッラ・フランチェスカは、ビッチ・ディ・ロレンツォが亡くなる1452年より前に、既にフレスコ画制作に着手していたと思われ、10年以上の歳月をかけてフレスコ画を完成させました。その間、ローマでの制作活動(1452-56年)のために作業は一時中断しますが、このローマでの活動がその後のフレスコ画制作に影響を与えました。彼は物語を構成する10の場面の年代順配列にはこだわらず、各場面の関連性を考慮しながら調和の取れた配列を実現しました。
ピエロ・デッラ・フランチェスカ作「聖十字架伝説」
「聖十字架伝説」とは、キリストが磔刑に処せられた十字架の聖木にまつわる伝説です。
.▲瀬爐了
.▲瀬爐了
イブに看取られながら臨終を迎えたアダムは、息子のセツにエデンの園の大天使ミカエルから「聖油」をもらってくるように頼みます。セツがエデンの園から戻ると、アダムは既に死んでいたので、大天使ミカエルからもらった「生命の木」を彼の墓の上に植えました。アダムの息子たちは、彼の死を悲しみました。ソロモン王は大木に成長したこの聖木を、シアロムの川に橋として架けました。
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シバの女王がエルサレムを訪れる途中、将来キリストがこの聖木に磔刑に処されるのを予知した彼女は、この橋の前で跪いて礼拝します。そしてソロモン王と会見したシバの女王は、彼にこの木がユダヤ人の王国に終末をもたらすかもしれないという神の啓示を伝えました。
聖木の運搬
聖木の運搬
シバの女王の予言を信じたソロモン王は、この木を地中深く埋めさせました。しかし後に、木が埋められた場所で池を掘った時に、この木が水面に浮上し、シバの女王の予言通り、この木でキリストの十字架が作られました。
ぅ灰鵐好織鵐謄ヌス帝の夢
ぅ灰鵐好織鵐謄ヌス帝の夢
キリストの受難から既に3世紀もの時が流れ、エルサレムも破壊されてしまいました。コンスタンティヌス帝は帝位継承権をめぐって、敵のマクセンティウス帝と決戦を迎える前夜、夢に現れた天使から「十字架を軍旗に掲げよ」という神の啓示を受けます。
ゥ灰鵐好織鵐謄ヌス帝とマクセンティウス帝の戦い・コンスタンティヌス帝の勝利
ゥ灰鵐好織鵐謄ヌス帝とマクセンティウス帝の戦い・コンスタンティヌス帝の勝利
コンスタンティヌス帝は神の啓示に従って十字架を軍旗に掲げて進撃し、ミルヴィオ橋の戦いでマクセンティウス帝を倒しました。(312年)勝利を収めたコンスタンティヌス帝は、晴れてローマ帝国の新皇帝となり、キリスト教を公認しました。(313年)
Ε罐世旅虧
Ε罐世旅虧
コンスタンティヌス帝の母、聖女ヘレナは、聖十字架を探すためにエルサレムに巡礼します。聖十字架の隠された場所を知っているユダは、涸れ井戸の中に吊される拷問を受け、7日目についにヴェヌス神殿の下に聖十字架が埋められていると白状しました。
Ы住架の発見と検証
Ы住架の発見と検証
ユダの白状通り、ゴルゴダの丘から3本の十字架が発見されました。聖女ヘレナはどれがキリストの十字架であるかを検証するために、通りがかりの葬列で3本の十字架を順番に死者の上にかざしてみたところ、死者を蘇らせた最後の十字架こそが「真の聖十字架」であると判明します。
┘悒薀リウス帝とホスロー王の戦い・ホスロー王の斬首刑
┘悒薀リウス帝とホスロー王の戦い・ホスロー王の斬首刑
ペルシャ王ホスローがエルサレムに攻め込み、聖十字架を奪い去る事件が起こりました。(615年)これを知った東ローマ帝国皇帝ヘラクリウスは、ホスロー王を攻め、聖十字架を奪還しました。(618年)戦いに敗れたホスロー王は改宗を拒否したため、容赦なく首をはねられました。
皇帝ヘラクリウスのエルサレム入城と聖十字架の賞揚
皇帝ヘラクリウスのエルサレム入城と聖十字架の賞揚
皇帝ヘラクリウスは聖十字架を返却するために、エルサレムに入城しようとすると、城門の上に天使が現れ、「主キリストはかつてこの門を通って受難の地に赴かれる時、つつましくロバに乗り、質素な衣類に身を包んでおられました。」と諭されます。皇帝は乗っていた愛馬から下りて、靴を脱ぎ、豪華な衣装をいっさい脱ぎ捨てて、聖十字架を高く掲げながら入城しました。エルサレムの市民たちが皇帝一行を歓迎しました。
受胎告知
受胎告知
救い主の物語の結末として、ピエロ・デッラ・フランチェスカは人類の救い主の復活を予知する「受胎告知」を描きました。
※Cartaria Aretina出版「Arezzo Guida」から引用
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