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ポッピ観光ガイド

ポッピの起源は古代ローマ時代まで遡ります。実際いくつかの歴史的資料の中で、高地にある集落から(ローマとリミニをつなぐ)フラミニア街道を見下ろす戦略的な位置に置かれた「パグス・プピウス」と呼ばれた古代ローマの集落の存在を証言しています。「ポッピ」と言う地名は、まさにこの人物に付与された名前「プピウス」から派生した地名ではないかと推定されています。あるいは、イタリア語の「丘」を意味する「ポッジョ」から派生した地名ではないかと仮説を立てる専門家もいます。

実際の集落の定着は、グイディ家がこの領土に移り住み、彼らが邸宅を構えた12世紀頃と言われています。グイディ家の支配下時代にポッピ城が築かれ、続けて集落の要塞が築かれました。1169年にカゼンティーノのプッピオ(ポッピ)の布陣で、2人の兵士とストゥルミ大修道院長の間で締結された契約書の中でポッピ城が言及されています。1196年にはローマ皇帝アッリゴ6世が、ポッピのグイディ伯爵家の初代当主グイド・ベヴィサングエを「全トスカーナの伯爵」として任命しました。グイディ家代々の領主が徐々に力をつけていく中で、ポッピはカゼンティーノの政治と行政を担う中心となっていきました。
上空から見たポッピの町並み
上空から見たポッピの町並み
ポッピから見たカゼンティーノのパノラマ風景
ポッピから見たカゼンティーノのパノラマ風景

1266年にマンフレディ伯爵が死ぬと、ギベリン皇帝派だったグイディ家はグェルフィ教皇派のフィレンツェへの服従を余儀なくされます。しかしながら、グイディ伯爵家はフィレンツェ共和国の支配下でもその体制を維持し、フィレンツェ共和国の政治や軍事で要職に就いた人物を多数輩出しました。

1289年にポッピの領土は、グェルフィ教皇派フィレンツェ軍とギベリン皇帝派アレッツォ軍の血まみれの戦いの舞台となり、領土の荒廃と城の破壊をもたらしました。いわゆる「カンパルディーノの戦い」は、フィレンツェがアレッツォを打ち負かした歴史的戦いでした。

1440年にグイディ家のフランチェスコ伯爵はフィレンツェ共和国を裏切って、対抗するミラノ公スフォルツァ家の軍隊に加担したことから、カゼンティーノでのグイディ家の支配が終わります。フィレンツェ軍にポッピを包囲されたフランチェスコ伯爵は降伏し、グイディ家はカゼンティーノから追放され、ポッピはフィレンツェ共和国の直接支配下に置かれました。こうしてイタリアが統一されるまでの1860年までフィレンツェ支配が続き、最初は共和国、次にメディチ家、最後にトスカーナ大公国がポッピを支配しました。

15世紀末以降、ポッピは放牧に必要な飼料を耕すための肥沃な土地を持つおかげで、家畜の飼育を基盤に経済が発展していきます。その間、1498-99年のフィレンツェとヴェネチアの戦いもポッピが舞台となり、1630年にはペストで多くの命が奪われ、町の人口が激減しました。

18世紀に入ると、住民は羊毛と絹の加工業、麦わら帽子と道具類の手工芸品製造に従事し、19世紀には既に経済が構造化され、農業と林業製品の大量生産も可能となりました。今日では食品や繊維の分野の産業活動を中心に、木材加工や既製服製造、家畜の飼育など農業活動が地域の経済を担っています。

ポッピはアレッツォ県とフィレンツェ県の間にあるトスカーナの孤立した渓谷、カゼンティーノの中心(標高475メートル)に位置し、大自然が殆ど手付かずのまま残っているカゼンティーノ森林国立公園に周りを囲まれています。

他の町では見られないポッピの中世の集落は、城壁が町を取り囲み、町の頂上にグイディ伯爵家ポッピ城(13世紀)がそびえています。ポッピ城は有名な建築家ディ・カンビオ一族によって設計され、フィレンツェのヴェッキオ宮殿の原型と言われています。両開き式扉のファサードに特徴づけられる城を高い塔が見下ろし、周りをグェルフィ狭間で飾られた城壁と広い堀に取り囲まれています。何世紀もの間の絶え間ない修復のおかげで、ポッピ城は現在最高の状態で保存されています。城内にはリッリアーナ図書館があり、数多くの中世期の写本や初期刊本が保存されています。他に注目できるのは伯爵家の礼拝堂で、ジョットの弟子タッデオ・ガッディの制作と思われる14世紀の一連のフレスコ画が飾られています。
ポッピ歴史地区の柱廊アーケード
ポッピ歴史地区の裏通り
ポッピ歴史地区の柱廊アーケード
ポッピ歴史地区の裏通り

城から坂道を下ると見えるサンティ・マルコ・エ・ロレンツォ教会(18世紀)には、リゴッツィとモランディーニの作品が保存されています。この教会前の町の中心広場アメリギ広場には、珍しい六角形のクーポラがあるトスカーナ・バロック様式のマドンナ・デル・モルボ礼拝堂(17世紀)が建ち、礼拝堂の周りは魅力的な柱廊で取り囲まれています。礼拝堂内にはピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノ作と思われる、16世紀のタブロー画「聖母子」が飾られています。

町のメイン通りであるカヴール通りの両側に建ち並ぶ柱廊アーケードを進むと、起源が非常に古いサン・フェデーレ教会(11世紀)に着きます。教会内は貴重な芸術作品の宝庫で、中でもむき出しになった石壁に飾られたジョット派の「十字架上のキリスト」や14世紀の素晴らしいタブロー画「聖母子」など、ヤコポ・リゴッツィやカルロ・ポルテッリ、アレッサンドロ・ダヴァンツァーティ、イル・ポッピ、ソロスメーオの絵画が保存されています。さらにその先の聖アウグストス女子修道院(16世紀)には、価値あるロッビア工房の彩釉テラコッタが保存されています。最後に町を取り囲む中世の城壁に沿って散策すると、周りに広がるトスカーナの典型的な田舎のパノラマ風景を楽しむことができます。
ポッピ歴史地区を取り囲む中世の城壁
アルノ川に架かるポッピ橋
ポッピ歴史地区を取り囲む中世の城壁
アルノ川に架かるポッピ橋

ポッピの特産品として、カゼンティーノ中に普及している職人技の機械織スティア原産の羊毛コートがあります。カゼンティーノの羊毛コートは元々修道士たちや山村の住民たちが着用していた防寒具で、伝統的なオレンジ色や緑色に特徴づけられる鮮やかな色調のコートで有名です。

土地の名物料理として、ジャガイモのトルテッロ(パスタの一種)があります。一般的なラビオリと中身の詰め物が異なるだけで、ホウレンソウやリコッタ(チーズ)の代わりに、他では見られないカゼンティーノ特産のジャガイモの塊茎が詰められています。

毎年ポッピで開催される催し物に「ポルチーニ祭り」があります。聖母マリア被昇天の大祝日8月15日に開かれるこの祭りで、土地の伝統的な名物料理を試食できます。
カゼンティーノの主要な歴史建造物であるポッピ城は、カゼンティーノの他の城や中世の建築物と違って、長い年月の間に人間によって破壊されずに、政治や行政の権力の首府として常に使われてきました。実際に今日もなお、ポッピ市庁舎が置かれています。ポッピ城の歴史は最初から、カゼンティーノの封建領主で最も強力だった一族の歴史と緊密な関係があります。広大な領地の中心をポッピに置き、400年間に渡って領主の館だったポッピ城に住んでいた一族がグイディ伯爵家です。
グイディ伯爵家ポッピ城ファサード
グイディ伯爵家ポッピ城ファサード(19世紀)

城の存在が言及された最初の文献は1191年まで遡りますが、当時は既に城が築かれ、グイディ家はトスカーナ州とロマーニャ州の広大な領地を所有していました。この事実から、ロンバルド族やフランク族がこの領土に侵入してきた紀元2-3世紀以前に城が建設されたと推測されています。

最初の城の中核を構成していたのは正方形の塔で、今日も城全体と谷一帯を見下ろすように建っています。現在の外観は建設当初の建物ではなく、19世紀に鐘塔の落雷で受けた被害の修復工事で再建されたものです。幸運にも今日でも損傷されずに残っているポッピ城は、アルノルフォ・ディ・カンビオが設計したフィレンツェのヴェッキオ宮殿の原型と言われています。それが事実であれば、以前の塔はより高く、威嚇のために持ち送りが突き出すように装備されていたものと思われます。当時は敵からの急襲の防衛用に塔の基部が急斜面になっていましたが、高さ3-4メートルを持つこの基部は現在、土中に埋まった状態で見えなくなっています。城壁には開口部が少ないですが、元来こうであったと思われます。次に塔の周りを壁で取り囲んで要塞化し、その囲い地から要塞の他の建物が拡がっていました。
翼壁に飾られたフィレンツェの貴族たちの石製紋章
城内の美しい石製階段
翼壁に飾られたフィレンツェの貴族たちの石製紋章(15世紀)
城内の美しい石製階段(15世紀)

当時のポッピ城には、2つの出入り口のみ設置されていました。ポッピ橋方面の谷側に設けられたより大きい出入り口は急な階段で出入りする扉になっており、反対側のより小さい出入り口は練兵場側に設けられていました。城の最後の大改築が行われた1470年以降、練兵場側の出入り口は「獅子の扉」と呼ばれ、城の主要玄関となっていました。

(練兵場側から見て)塔の右側には長方形の障害物が建設され、城が拡張されました。最初の天守閣だったこの場所は、下の階から上の階にかけてそろぞれ監獄、倉庫、住居として使われていました。今日石壁で囲まれた小さな中庭は塔までつながっていますが、元来離れていた2つの建物は高い階へのはね橋でつながれ、それぞれが独立し、場合によっては一方の建物を防御する構成になっていました。今日ポッピ市議会の議場に使われている天守閣の最上階の大広間で、1440年にグイディ伯爵家最後の当主フランチェスコがフィレンツェ共和国に降伏した文書が作成されました。
防備された城の塔
カゼンティーノの谷を見下ろすグイディ伯爵家ポッピ城
防備された城の塔(15世紀)
カゼンティーノの谷を見下ろすグイディ伯爵家ポッピ城

殆ど同時に、塔の反対側に城のもう一方の翼壁の建設が着工されます。天守閣の建設が完成した時に、この翼壁は建物の2階部分まで建てられました。城内の中庭からその翼壁に、代々城を守ってきたフィレンツェの貴族たちの石製紋章を今日でも見ることができます。ポッピ橋側の中庭は、礼拝堂で閉じられています。これらの建設事業の殆どは、シモーネ・グイディ伯爵によって計画されたと考えられています。シモーネは1274年に始まった最初の大改築の立て役者で、最初は小さな要塞だった建物を高貴な領主の館まで昇格させました。上品さを出すために、城のファサードに両開き式扉が設けられました。

次いで1470年から始まった大改築では、主に城内の中庭から建物の各階や城外の囲い地に出入りすることができる美しい石製階段が建設されました。城と練兵場の間に堀が掘られ、外部の城壁には防備された外門が築かれ、事実半月保と呼ばれる張り出し部分が「獅子の扉」を防御する役目をしていました。この防備にははね橋も装備されていましたが、現在は消滅し残っていません。このように、当時の城は素晴らしい邸宅でした。19世紀の最後の修復工事では、狭間の大部分や両開き式扉、城壁が修復され、今日見られる素晴らしい外観を城にもたらしました。

ポッピ城ではかの有名な戦い「カンパルディーノの戦い」に関する証言や資料の展示が常設されています。1289年6月11日にポッピ近郊が舞台となったカンパルディーノの戦いで、ギベリン皇帝派のアレッツォ軍はグェルフィ教皇派のフィレンツェ軍に完敗しました。

歴史的資料が展示されている城内の展示室に入ると、まるで時間が止まっているかのような錯覚を覚えます。時には悲劇となる戦いの歴史ですが、集落のすぐ近くにあるカンパルディーノの平原で、当時最も血まみれの戦いと言われたほど多数の兵士が戦死しました。この戦いには若き日のダンテも、グェルフィ党員として従軍しました。
「カンパルディーノの戦い」展示室
「カンパルディーノの戦い」展示室

中世に騎士の馬上試合が展開されたポッピ城のプラテッロ(現在は公園)には、城よりかなり以前に建てられた建物の遺跡が残っています。ある伝説から、この遺跡は「悪魔の塔」と呼ばれていました。

年老いた夫を持つ伯爵夫人マテルダは、情事を楽しむためにいつも家を留守にしていました。彼女を取り巻く若者たちを誘惑し、伯爵夫人との情事を喋らせないように彼らを殺し、鋭利な刃物で武装された井戸の中にその死体を投げ込みました。結局この悪事が見つかり、マテルダは塔の中で殺されました。
プラテッロ公園
プラテッロ公園

カヴール通りの美しい柱廊アーケードを歩いていくと、ヴァッロンブローサ修道院の教会として11世紀に建立されたサン・フェデーレ教会があります。この教会に関する最初の資料は10世紀まで遡り、テグリモ伯爵所有のストゥルミ宮殿内に建てられた教会で、彼は教会を寄贈し、彼の後継者たちが築いた莫大な遺産をも残しました。1007年には既にベネデッティーノ修道院として存在し、創設者の未亡人とその息子グイド伯爵によって寄贈されたと推定されています。寄贈にはロスコーヴェ宮殿にあった財産を始め、1029年から十分の一税とクオルレやストゥルミ、ポルチャーノ、ヴァード、チェティカ、ロルニャーノの宮殿からの貢物も含まれました。続いてグイディ伯爵家から度々援助を受けました。

11世紀後半に修道院はヴァッロンブローサの規則を採用し、この法規は教皇ウルバーノ2世による1090年8月6日付けの大勅書で承認されています。時が経つにつれて元の修道院が手狭になったことから、1185-95年にかけて修道院はポッピ城内に移され、修道院の建物は新たにサン・フェデーレ教会としてフィエーゾレの司教によって聖化されました。その後教会は拡大され、内部はバロック様式で変容されますが、1810年に修道院の称号が廃止され、単なる教区教会に縮小されました。1928-34年にかけて建築家ジュゼッペ・カステッルッチの指揮下で修復され、ロマネスク様式で復元されました。
サン・フェデーレ教会ファサード
サン・フェデーレ教会ファサード(11世紀)
14世紀後半の十字架が飾られた中央祭壇
14世紀後半の十字架が飾られた中央祭壇(1296年)

教会はロマネスク様式とゴシック様式の変遷の特徴を保存しています。石でできた外壁は側面に小さな片開きの窓、正面中央には中身のない円花窓で飾られています。右側面には1574年に開設され、ネオ・ゴシック様式で再建された大きな玄関があります。側面には鐘塔も建っています。

唯一の身廊から成る教会内部はラテン十字式の設計となっており、化粧屋根裏天井で屋根を支え、ルネサンス様式の祭壇で飾られています。右壁面の最初の祭壇にはジョヴァン・バッティスタ・ナルディーニ(1537年頃-91年)作「十字架上のキリストと聖母マリア、聖ジョヴァンニ、マッダレーナ」、左壁面の最初の祭壇にはヴィンチェンツォ・ボニッリ制作のタブロー画「プレゼピオ」とカマルドリ教会に保存されているジョルジョ・ヴァザーリの作品を模倣した絵画、2番目の祭壇にはピエトロ・ソッリ(1556-1622年)作「聖ロレンツォの殉教」、3番目の祭壇にはカルロ・ポルテッリ(1545-74年)作「聖ベネデットと聖ベルナルド、聖ミケーレ」が飾られています。

教会内陣には1296年に制作された中央祭壇があり、14世紀後半に描かれた十字架が飾られています。左壁面にはヤコポ・リゴッツィ(1547-1627年)作「聖母マリアを礼拝する聖ベネデット」、右壁面にはアントニオ・ダ・セッティニャーノ(通称ソロスメーオ)作「聖母子と4人の聖人たち」(1527年)、内陣奥の壁面にはパッシニャーノ(1559-1638年)作「福音史家・聖ジョヴァンニと聖女カテリーナ」、翼廊にはポッピ出身の有名な画家フランチェスコ・モランディーニ(通称イル・ポッピ、1544-97年)作「福音史家・聖ジョヴァンニの殉教」が飾られています。

他に注目できる作品は、マエストロ・デッラ・マッダレーナ作と思われる「王座の聖母子」(1280-90年頃)です。
マエストロ・デッラ・マッダレーナ作「王座の聖母子」
マエストロ・デッラ・マッダレーナ作と思われる「王座の聖母子」(1280-90年頃)
クリプト(地下聖堂)は3つの小身廊から成り、2本の角柱に支えられています。そこには1182年に亡くなった隠遁者の福者トレッロ・ダ・ポッピの武具が納められたクルミ材の棺と、彼の半身像が保存されています。金銀メッキ製のブロンズ半身像には、15世紀の浮き彫り細工が施されています。

ミーノ・ダ・ポッピ通りにあるサンティ・マルコ・エ・ロレンツォ教会は、1284年に建立されました。現在の教会は18世紀に再建され、1784年に再度聖化されたものです。通りの坂道から続く18世紀の左右対称の階段から入る教会のファサードには、2本の付け柱の上に置かれた三角形のティンパヌムと平らな軒蛇腹で縁取りされた正面玄関があります。

唯一の身廊から成る教会内部は、混合様式の付け柱で分けられ、半円天井は6つの幕面でさえぎられています。側面の礼拝堂には、バロック様式末期の味わいを持つ壁龕に重要な聖画が飾られています。注目できる作品は、フランチェスコ・モランディーニ(通称イル・ポッピ)作「五旬祭(聖霊降臨祭)」(1575年頃)と「キリストの降架」、ヤコポ・リゴッツィ作「ラザロのキリストの復活」(1619年)です。
サンティ・マルコ・エ・ロレンツォ教会ファサード
サンティ・マルコ・エ・ロレンツォ教会ファサード(18世紀)
トスカーナで最も独創的と言われる礼拝堂は、町の中心広場アメリギ広場に建っています。1659年に建立されたバロック様式の六角形の礼拝堂にはクーポラがあり、3側面をルネサンス様式の柱廊で囲まれています。礼拝堂内にはピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノ作と思われる「聖母子と聖ジョヴァンニ」(16世紀)が保存されています。この礼拝堂は当時ポッピを襲ったペストで命を落とした多数の人々に対する祈願と慈悲のために、1657-59年にかけて建てられました。
マドンナ・デル・モルボ礼拝堂ファサード
マドンナ・デル・モルボ礼拝堂内部
マドンナ・デル・モルボ礼拝堂ファサード(17世紀)
マドンナ・デル・モルボ礼拝堂内部(17世紀)

聖アウグストス女子修道院は1563年に、アウグスト修道院として建設されました。アレッツォ司教によって町の修道院から3人のカマルドリ修道女が派遣される1911年まで、アウグスト修道院として機能していました。

水切り傾斜付きの簡素なファサードには、上部が半円状のアーチになったアーキトレーヴで飾られた玄関があります。ファサードにもたれるように、小さなアーケード式鐘塔がそびえています。修道院内にはジョヴァンニ・デッラ・ロッビア作と思われる彩釉テラコッタ「プレゼピオ」(16世紀)と、フランチェスコ・モランディーニ制作の油絵「受胎告知」が保存されています。
聖アウグストス女子修道院ファサード
聖アウグストス女子修道院ファサード(16世紀)

アルノ川右岸のポッピ城とフロンツォラ城の間に位置するサンタ・マリア・ア・ブイアーノ教会は、11世紀初頭に建てられた古い教会です。既存の古代ローマ時代の建物の上に建てられたもので、過去に床面のモザイクの破片が発見されています。

現在の教会は何世紀にも渡って受けた深刻な損傷で、元の教会の中央身廊の3分の1のみを残すだけとなっています。実際最初の教会は3つの身廊と7つのスパンから成り、奥には3つの後陣がありましたが、今日では唯一の身廊とその後陣、5つのスパンで構成されています。最も興味深いのは2列の円柱に支えられたクリプト(地下聖堂)が残っており、中央祭壇前の階段から下りて行くことができます。
サンタ・マリア・ア・ブイアーノ教会後陣
サンタ・マリア・ア・ブイアーノ教会後陣(11世紀初頭)
ポッピ市公式サイトから引用(伊語ページ)
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