アレッツォ観光ガイド
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イタリア中部トスカーナ州アレッツォを愛してやまない管理人が、アレッツォ全県の素晴らしさを皆様にレポートいたします!
※写真・イラストは全てイメージです。ご旅行中に必ずしも同じ角度・高度・天候での風景をご覧いただけるとは限りませんのでご了承ください。
アレッツォの歴史
「ガイオ・チルニオ・メチェナーテ」国立考古学博物館に保存展示されている先史時代の発見物が証明するように、アレッツォ領土の歴史は非常に古く、その起源はおそらく後期旧石器時代、紀元前20万年以上前まで遡ります。

それらの発見物の中でも、1863年にローマ方面への鉄道トンネル開通のための発掘作業中にオルモ地区で発見された人間の半頭蓋骨、いわゆる「オルモの頭蓋骨」は5万年以上前まで遡ります。

この発見はアレッツォの大地に石器時代から人類が住んでいたことを示し、アレッツォからヴァルディキアーナ地方とアルノ川流域一帯まで、狩猟と植物の採集によってホモ・サピエンスが生きていたことを証明しています。

古代ローマ人とギリシア人の書物の中で言及され、数多くの石碑にも刻まれている「アレティウム」(アレッツォのラテン語名)と言う地名の起源は、エトルリア先史時代(紀元前8世紀以前)まで遡りますが、その意味や由来ははっきりしていません。
オルモの頭蓋骨
オルモの頭蓋骨(5万年以上前、「ガイオ・チルニオ・メチェナーテ」国立考古学博物館所蔵)
おそらく最初はウンブリア人が住んでいたと思われる古代のアレッツォ(紀元前6-4世紀)は、サン・ピエトロの丘(現在のアレッツォ大聖堂)とサン・ドナートの丘(現在のメディチ家城塞)の付近一帯を占めていました。他のエトルリア都市国家との国境を有する地域(現在のエミリア・ロマーニャ州とマルケ州、ウンブリア州)との交易の中心であり、1万から2万の人口を数えました。当時は神殿や聖堂が数多くあったことから、価値ある土器や青銅像が今日たくさん発見されています。

キメラ

ライオンの頭と山羊の胴体、蛇の尻尾を持つギリシア神話に登場する伝説の怪物で、ペガサスに乗る英雄ベレロポンに退治されたと伝えられています。
1553年に町の城壁のサン・ロレンティーノ門の外側で発見され、当時町を支配していたメディチ家コジモ1世のコレクションに加えられたことから、現在はフィレンツェ国立考古学博物館の所蔵となっています。

(紀元前4世紀、フィレンツエ国立考古学博物館所蔵)
エトルリアのブロンズ像「キメラ」

農夫

2頭の牛と犂に、おそらく神に仕える者が耕している姿を表し、何世紀にも渡るその地方の農民の文明の象徴ではないかと解釈されています。

(紀元前4世紀、ローマのヴィラ・ジュリア国立博物館所蔵)
エトルリアのブロンズ像「農夫」

ミネルヴァ

1541年にサン・ロレンツォ教会の井戸の中から発見された美しい彫像は、知恵の女神を表しています。キメラ同様、現在はフィレンツェ国立考古学博物館の所蔵となっています。

(紀元前2-1世紀、フィレンツエ国立考古学博物館所蔵)
エトルリアのブロンズ像「ミネルヴァ」

エトルリア時代のアレッツォは、エトルリア都市連盟の12都市国家の一つに属し、町の周囲約2キロメートルを石の城壁で取り囲み、現在でもピアッジャ・サン・バルトロメオ通りC/5番地にその痕跡を留めています。地理的に今日のアレッツォ県を構成する、ヴァルディキアーナ・カゼンティーノ・ヴァルダルノ・ヴァルティベリーナの4地方にまたがる、非常に広大な領土を支配していました。

青銅器と陶器の製造の町は、農業と国際交易の中心であり、ギリシアから陶器を輸入し、アルプスの向こう側の国々と経済面での交流がありました。

紀元前3世紀にはアレッツォ独自の円形貨幣(単位:アンフォラ/クラテル)を鋳造し、「ガイオ・チルニオ・メチェナーテ」考古学博物館に展示されている貨幣が裏付けるように、ヴァルディキアーナ地方のキュージやオルヴィエートまで普及していたことが明らかになっています。当時の町の中心部は旧市街地の高地を占め、共同墓地(死の町)はポッジョ・デル・ソーレの丘に置かれていました。

ローマの勢力が次第に強くなるにつれ、徐々にローマに併合されていったアレッツォの町は、領土を南西方面に拡大し、さらに紀元前3世紀には煉瓦で築いた3番目の城壁で町を取り囲み、飛躍的な人口増加(3万人)と製造業・商業の著しい発展を遂げました。紀元前205年にはスキピオ将軍によるカルタゴ遠征のために、12万プッシェル(穀物単位)の小麦に3千の盾と兜、5千の投槍など大量の軍需物資を供給したほど、当時の町の経済は非常に豊かでした。

古代ローマ時代(紀元前2/1世紀)に入ると、町は平地にまで領土が拡大し、商業・軍事上の重要な継ぎ目となり、製造業・農業の中心地に発展しました。町には余暇を楽しむための大収容可能な施設(公衆浴場や劇場、噴水)が建設され、近郊の田舎には私有の邸宅が建てられ、さらにカステルセッコのサン・コルネリオの丘には巨大な神殿が建造されました。

紀元前89年以降、ローマ・カプアに次ぐ古代ローマの第3の自由都市として栄えたアレッツォは、裕福な産業の町として、特に農業活動と押印模様の陶器製造の分野において抜きん出ていました。当時100以上の陶器製造工場が存在したことが、それを証明しています。中でも有名だったのは、ラシニウス、M.ペレンニウス、L.メンミウス、P.コルネリウス、C.チスピウス、プブリウス、L.ポンポニウス、ピサヌス、アンニウス、アヴィリウス・スッラの工場です。アレッツォ製の壺は古代の世界中至る所に輸出され、町の主要な収入源となっていきました。

古代ローマの自由都市アレッツォの衰退は、紀元2世紀に始まり、町の主要産業であった壺の製造業と商業に深刻な危機をもたらしました。北部地方との交易に使われてきた旧カッシア街道に代わり、紀元123年に建設された新カッシア街道が、キュージとシエナ・フィレンツェ間を直結する交通路となったことから、アレッツォの経済活動は衰退し、町の人口が減少していきました。
カステルセッコのエトルリア城壁
カステルセッコのエトルリア城壁(紀元前2世紀)
サン・コルネリオの丘のエトルリア円形劇場跡
サン・コルネリオの丘のエトルリア円形劇場跡(紀元前2世紀)

キリスト教の普及とともに、ローマ皇帝たちによるキリスト教徒への迫害が始まります。ピオンタの丘のカタコンベやポッジョ・デル・ソーレの共同墓地、礼拝所にキリスト教徒たちが集まるようになります。紀元250年に最初の殉教者、聖ロレンティーノと聖ペルジェンティーノが犠牲となり、カストロ急流の側(現在のマルコ・ペレンニオ通りA/1番地が終わる地点)に埋葬されました。後に彼らの霊を弔うための記念碑がこの地に建てられますが、中世に入ると、現存のサン・ロレンティーノ&サン・ペルジェンティーノ教会が再建立されました。

アレッツォ史上2番目の司教で、今日町の守護聖人である聖ドナートは、304年8月7日に打ち首にされました。1032年に彼の名誉回復のために、ピオンタの丘に旧ドゥオーモ(大聖堂)が建立されますが、中世に入ると、アレッツォのキリスト教徒の本拠地であるドゥオーモが現在の地に建立されました。
サン・コルネリオの丘のエトルリア神殿跡
メディチ家城塞の古代ローマ遺跡
「聖ドナート」肖像画
サン・コルネリオの丘のエトルリア神殿跡(紀元前2世紀)
メディチ家城塞の古代ローマ遺跡(紀元前2-1世紀)
アレッツォ2代目司教で殉教した「聖ドナート」肖像画(304年8月7日没)
紀元2世紀以降、アレッツォの地でキリスト教徒の急速な増加とともに普及していったキリスト教は、ローマ帝国が終焉を迎える頃には、町の地域社会にとって非常に重要な位置を占めるようになっていました。同時に町は4番目の城壁で周囲1600メートルを取り囲み、人口は5-6千人まで激減し、町の領土はサン・ドナートの丘の周りに縮小されていきました。
※Cartaria Aretina出版「Arezzo Guida」から引用
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