アレッツォ観光ガイド
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※写真・イラストは全てイメージです。ご旅行中に必ずしも同じ角度・高度・天候での風景をご覧いただけるとは限りませんのでご了承ください。
アレッツォの歴史
中世に入ると、教会の権力が次第に強まり、ピオンタの丘を司教の本拠地に定めます。丘にはマジナルド(970年頃-1040年頃)によって設計された聖ステファノと聖母マリアに捧げられた旧ドゥオーモや聖ドナートの墓、司教公邸、聖職者の住宅が次々と建設されました。

紀元6世紀から11世紀にかけて、ピオンタの丘はアレッツォ司教区の政治と文化、宗教の中心となり、偉大なグイド・モナコ(991年頃-1050年)が教鞭を執った著名な学校や、当時のアレッツォ司教でもあった封建領主の邸宅がありました。1053年にはアレッツォ司教に伯爵の称号が与えられ、「司教伯爵」とも呼ばれました。

イタリア半島の他の都市国家同様、11世紀から12世紀にかけてアレッツォの政治・経済は回復し、1098年にはアレッツォ都市国家として最初の最高行政官が誕生しました。町の人口は1.5-2万人を数え、当時の主要な大学の一つの本拠地となりました。
ピオンタの丘の遺跡
ピオンタの丘の遺跡(紀元6-11世紀)

都市国家時代に町の中心部は、長期に渡る安定した時代を迎えます。1203年に司教が町の城壁の中に居を移したことで、都市部と宗教の本拠地(ピオンタの丘)の分割が解消され、都市周辺部の領主(貴族階級)たちの都市流入により、建築と都市化の著しい発展を遂げます。

12世紀初頭には1111年にドイツ皇帝エンリコ5世の軍隊によって破壊された町の城壁を修復し、新たに5番目の城壁で町の北側に発展した都市圏をも取り囲みました。1200年には6番目となる全長3キロメートルの城壁で町を取り囲み、現在のガリバルディ通りを西から南、そして南東方面まで城壁が続き、残りは現存の城壁に一致するほどの長さでした。

中世のアレッツォは、裕福で力強い教養豊かな都市国家として繁栄しました。2万人以上が住む都市部は4地区(ポルタ・デル・フォロポルタ・クルチフェラポルタ・サン・タンドレアポルタ・デル・ボルゴ)に分割され、文化活動が盛んな地域社会として国際的な名声を得ていました。

イタリア半島のみならず、ヨーロッパ大陸からやって来た学生たちが通う大学は、高名な法律の教授(ロッフレド・ダ・ベネヴェント、ボンフィリオ、ミノ・ダ・コッレ)と実用的で実践的な書物で、ヨーロッパ中にその名が知られていました。13世紀から14世紀にかけてのアレッツォの文化と芸術の発展は、多くの偉大な人物を輩出しました。

まず第一に挙げられるのは、詩人グイットーネと彼の仲間(アッリゴ・テスタ、ウベルティーノ・ディ・ジョヴァンニ・デル・ビアンコ、メッセル・フィーノ、バルドゥッチョ、ヤコポ・ディ・レオーナ)です。

次に挙げる偉大な科学者で(細密)画家でもあったレストロ(リストロ)は、天文地理学の大論文(1282年)を俗語で書いた最初の作家としても知られています。画家、彫刻家、建築家として知られるマルガリート(マルガリトーネ)は、上品で洗練された芸術家です。生まれ故郷のアレッツォやトスカーナの他の町で活躍した、多才なフレスコ画家スピネッロ・アレティーノは、絵画学校の創始者としても知られています。
ピエトロ・ブォナアミーチ作「旧ドゥオーモの後陣」
パオロ・ウッチェッロ作「カンパルディーノの戦い」
ピエトロ・ブォナアミーチ作「旧ドゥオーモの後陣」(1597年、アレッツォ司教公邸所蔵)
パオロ・ウッチェッロ作「カンパルディーノの戦い」(1289年6月11日)

経済の発展とともに文明・文化・芸術が光輝いた13世紀から14世紀にかけて、町は今日もなお保たれている外観を手に入れます。家々や塔、領主の邸宅が次々と建設され、共有広場(現在のグランデ広場)が整備されました。慈善団体や連合協会が誕生し、中でもアレッツォの社会史・文化史において最も重要な機関の一つである、フラテルニタ・デイ・ライチ慈善会が1262年に創設されました。

町の最も代表的な宗教建造物のピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会ドゥオーモサン・ドメニコ教会サン・フランチェスコ教会がこの時代に建立され、またカピターノ・デル・ポポロ宮殿やコムーネ宮殿(通称トッレ・ロッサ宮殿)、プリオリ宮殿(現在のアレッツォ市庁舎)の歴史建造物も同時期に建設されました。

13世紀に入ると、アレッツォは政治・社会的に不安定な時代を迎えます。町を支配してきた貴族社会が、それぞれの政治理念と経済利害で結ばれた2大勢力に分裂します。ボストリ家・カマイアーニ家・アルベルゴッティ家のグェルフィ教皇派と、ウベルティーニ家・タルラーティ家のギベリン皇帝派が、町の権力と司教の要職を手に入れるために激しく対立しました。断然優勢であったギベリン皇帝派が、町の権力を手に入れ、絶えず町を支配することになります。

最初は1248年から1289年まで、グリエルミーノ・デリ・ウベルティーニが司教に就き、次いで1312年から1327年まで、グイド・タルラーティが司教に就きました。一方、グェルフィ教皇派の敵たちは追放を余儀なくされ、1289年6月11日のカンパルディーノの戦い(ダンテもグェルフィ党員として従軍した)では、同国人同士で戦うことになります。この戦いで皇帝派のアレッツォ軍は教皇派のフィレンツェ軍に敗れ、グリエルミーノ・デリ・ウベルティーニが戦死しました。

このカンパルディーノの戦いの敗北は、アレッツォのギベリン皇帝派の内部分裂をもたらしました。ウグッチョーネ・デッラ・ファッジョラ出身の司法長官が率いるヴェルディ派と、タルラーティ家を味方に入れたセッキ派が激しく争いますが、優勢なタルラーティ家の年長者グイド・タルラーティが果断に権力を掌握し、行使していきました。司教でもあった彼は町の内部対立を和解させ、領土の拡大を促進し、経済・文化の発展を奨励しました。

今までで一番長い城壁(7番目、全長5キロメートル以上)が築かれ、10個の城門(サン・ロレンティーノ門サン・クレメンテ門サン・ビアジョ門、ストゥフィ門サン・タンジェロ門クルチフェラ門、サン・ジュスティーノ門、サント・スピリト門ヌォーヴォ門、ブイア門)が開設されました。さらにカンポ・ディ・マルテ方面とレオン・バッティスタ・アルベルティ通りまで、町は拡張されました。

1327年10月21日にグイド・タルラーティが死ぬと、サッコーネと呼ばれた弟ピエロが彼の跡を継ぎますが、兄のような崇高さに欠け、町の政治・文化の安定を保つことができませんでした。一族間の争いや経済と政治の対立、傭兵によってもたらされた大虐殺と荒廃で町は衰退し、政治体制の危機を迎えます。フィレンツェ共和国はこの危機的状況を悪用し、4万フロリン金貨を支払ってアレッツォを購入しました。
こうして都市国家としてのアレッツォは終焉を迎え、重大な政治的敗北とともに、自治都市としての自由も失うことになりました。
※Cartaria Aretina出版「Arezzo Guida」から引用
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