アレッツォ観光ガイド
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アレッツォ再発見とは?
アレッツォ観光ガイドとは?
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※写真・イラストは全てイメージです。ご旅行中に必ずしも同じ角度・高度・天候での風景をご覧いただけるとは限りませんのでご了承ください。
アレッツォの再発見掘淵哀薀鵐嚢場の周辺)

18世紀のヴェッキア通りには、サン・クレメンテ修道院のカマルドリ修道会が所有する宿泊所とその一画に小さな畑がありました。1796年2月15日の夕方、宿泊所内の居酒屋にいた3人の職人たちと店の女主人を前に、「慰めの聖母マリア」の奇跡が起こりました。

当時店の中には、シエナで崇拝されていたプロヴェンツァーノの聖母マリア像が飾られていました。長年の煙と埃で黒ずんだ聖母マリア像が突然白くなり、涙を流し、光り輝いたと伝えられています。奇跡の聖母マリア像はその後、宿泊所内のヴェッキア通りに面した礼拝堂に置かれ、現在はドゥオーモ内の「慰めの聖母マリア」礼拝堂に飾られています。
「慰めの聖母マリア」小礼拝堂の玄関
プロヴェンツァーノの聖母マリア像
「慰めの聖母マリア」小礼拝堂の玄関
プロヴェンツァーノの聖母マリア像

プレトリオ宮殿はかつてのグェルフィ教皇派のアルベルゴッティ家、ロドメリ家、サッソリ家の邸宅が建ち並ぶ地区にあります。1404年に町の行政府が監獄として使うためにサッソリ宮殿を購入し、1632年にはアルベルゴッティ宮殿も購入しました。

その後何世紀もの間に被る損傷や破壊のために、建物全体の改築を何度も余儀なくされますが、15世紀前半頃から町の高位な行政長官や軍隊長の紋章が、宮殿のファサードに飾られるようになりました。宮殿内の玄関右側にある古い礼拝堂には「受胎告知」の剥離フレスコ画が残っています。2階の小広間には「聖母子」像(14世紀)が描かれた壁龕が保存されています。3階の角の広間は美しい木製天井(16世紀)で覆われています。
プレトリオ宮殿ファサードを飾る紋章
プレトリオ宮殿横のアルベルゴッティ宮殿
プレトリオ宮殿ファサードを飾る紋章(1434年以降)
プレトリオ宮殿横のアルベルゴッティ宮殿

非常に興味深いプラティチーノ遺跡は、2つの区域に分けられます。プレトリオ宮殿側に面する一画にはカピターノ・デル・ポポロ宮殿の遺跡が残り、パラージ通りに面するより高い一画にはイタリア様式の庭園があります。

13世紀後半に建設されたカピターノ・デル・ポポロ宮殿は、フィレンツェ共和国の支配下で、14世紀にその衰退が始まります。16世紀のメディチ家城塞の建設中に、メディチ家コジモ1世の命令でまず宮殿の塔が破壊され、続けて宮殿が破壊されました。
プラティチーノ遺跡
カピターノ・デル・ポポロ宮殿の残骸の上にある小聖堂
プラティチーノ遺跡
カピターノ・デル・ポポロ宮殿の残骸の上にある小聖堂(1928年)
プラティチーノ遺跡の上にある庭園には、グランデ広場から階段を上って直接行くことができます。庭園に飾られた砂岩製の2本の円柱は、1930年代に歴史地区の環境整備事業の一環で建てられました。カピターノ・デル・ポポロ宮殿の残骸の上にあるルネサンス様式の小聖堂は、1928年に新古典主義様式で建てられた元の小聖堂の代わりに建立されました。

ガリレオ・キーニによって描かれた寓意図のフリーズは、宮殿横の木製の腕木に支えられた軒下の壁面に見ることができます。この軒は出入り口の階段を覆うために設けられました。

14世紀に建設されたかつてのカマイアーニ・アルベルゴッティ宮殿だった建物は一度修復されますが、アレッツォ貯蓄銀行の本社を置くために、1904-05年にウンベルト・タヴァンティの設計を基に大規模な改修が行われました。その後1928年に銀行が他の場所に移転すると、宮殿にはファシスト党の支部が置かれ(1934-44年)、1933年にジュゼッペ・カステッルッチの設計による新たな修復で、宮殿の横にそびえるビガッツァ塔(1351年)がさらに高く築かれました。
カマイアーニ・アルベルゴッティ宮殿
ガリレオ・キーニ制作の寓意図
カマイアーニ・アルベルゴッティ宮殿(14世紀)
ガリレオ・キーニ制作の寓意図
当時のビガッツァ塔は、ファシズム象徴のシンボルとして「リークトル」塔と間違って呼ばれていました。高くなった塔に設けられた鐘塔からは、「ファシストの召集ラッパ」と呼ばれた鐘が鳴り響いていました。宮殿は1960年から国立資料館となっています。
ヴィチェンツァのオリンピック劇場やフィレンツェのウフィッツィ劇場(現在のウフィッツィ美術館内)が建設された12年後の1597年に、アレッツォでもヴァザーリが設計した回廊宮殿内に、コンメディア(即興喜劇)を上演するための屋内劇場が建設されました。

劇場の入り口は宮殿裏の現プラティチーノ広場に面し、劇場は最後の仕上げが未完成に終わりましたが、1612年にトスカーナ大公コジモ2世の訪問の際に、劇場の落成式が行われました。

その後保存状態が悪化した劇場の修復を、1740年にフラテルニタ・デイ・ライチ慈善会が建築家ザラーに依頼し、その3年後に修復が完成した新劇場は「グランデ劇場」と呼ばれました。

しかし1867年8月に裁判所の重罪院が置かれ、劇場は消滅しますが、庶民の娯楽の場であった劇場に苦痛の重罪院を置くことに論議が繰り返されました。
ジョルジョ・ヴァザーリ通り
ジョルジョ・ヴァザーリ通り
18世紀にミゼリコルディア慈善会とも呼ばれたフラテルニタ・デイ・ライチ慈善会は、貧しい人々や病人、困窮した人々を援助する目的で、1262年にドメニコ修道士たちによって創設されました。

当時最高裁判所の本部が置かれていたグランデ広場のフラテルニタ・デイ・ライチ宮殿は14-15世紀に建設されますが、美しいファサードは16世紀にヴァザーリの設計を基に完成しました。

ファサード上部を飾る時計塔は、1552年にフェリーチェ・ダ・フォッサートによって制作され、イタリアで最も古い時計の一つと言われています。17世紀末期の修復で脱進機の仕組みを取り入れた振り子時計に変わりますが、時刻を示す時計の針は今日でも12時間正確に回っています。
フラテルニタ宮殿の時計塔
フラテルニタ宮殿の時計塔(1552年)
ジョルジョ・ヴァザーリの著書「画家・彫刻家・建築家列伝」によると、画家パッリ・ディ・スピネッロがグランデ広場のフラテルニタ宮殿の法廷内に「聖母マリアと民衆、聖グレゴリオ教皇、聖ドナート司教」を描いたと記されています。

新たな法廷の建築に伴い、1446年にフラテルニタ・デイ・ライチ宮殿が拡張され、新法廷の壁面にパッリ・ディ・スピネッロによってフレスコ画「慈悲の聖母マリアと聖人たち」が描かれました。

フレスコ画には聖母マリアのマントに守られたアレッツォ民衆が描かれていますが、その中の何人かは最も慈善を施したフラテルニタ慈善会の会員だと言われています。

フラテルニタ慈善会の歴史資料によると、1448年10月11日にフレスコ画制作費がパッリ・ディ・スピネッロに支払われた記録が残っています。新法廷は現在、アレッツォ弁護士会の本部になっています。
パッリ・ディ・スピネッロ作「慈悲の聖母マリアと聖人たち」
パッリ・ディ・スピネッロ作「慈悲の聖母マリアと聖人たち」(1448年)
グランデ広場のコファーニ・ブリッツォラリ宮殿の修復工事は、中世の絵のような景観を再構築する目的で、広場の都市環境整備事業の一環として始まりました。

貴族の邸宅であった建物の痕跡を明らかにするための作業中の1927年頃に、宮殿内で2つの塔の残骸が発見されました。工学者ウンベルト・タヴァンティの助言によって、元の塔を再現するための工事が数年間で完成しました。

この工事には、建築家ジュゼッペ・カステッルッチの長年の経験も貢献しました。中世の建物の骨組みが明らかになったことで修復が完成したウグッチョーネ・デッラ・ファッジョーラ塔は、上部を狭間で装飾されました。
コファーニ宮殿とウグッチョーネ塔
コファーニ宮殿とウグッチョーネ塔(1920年代末期)

グランデ広場は1920年代末から1930年代初めにかけて、真珠のように急速に美しくなっていきました。例えば、それ以前に修復されたコファーニ・ブリッツォラリ宮殿のウグッチョーネ・デッラ・ファッジョーラ塔以上に、壮大にそびえ立つラッポリ塔を挙げることができます。

ピエーヴェ・ディ・サンタ・マリア教会後陣の周辺に準拠した遠近法を用いながら、綿密な作業で広場全体が再建されました。煉瓦で広場が舗装され、鉄のチェーンが付いた85本の小柱で広場を取り囲みました。また消失してしまった井戸が原型に基づいて忠実に再現され、かつて民衆への布告に使われていた円柱型の記念碑も再建されました。

広場の復興のために行われた入念な調査の結果、広場東側に面して建ち並ぶ家々も新たな修復工事の提案の下に再建されました。
ラッポリ塔
広場東側の家々
ラッポリ塔(1930年代初期)
広場東側の家々

1925年に修復されたボルグント塔は、建築家ジュゼッペ・カステッルッチによって塔がさらに高く築かれました。町の古い石造りの塔の中で一番高くなったボルグント塔は、当時町で大評判になりました。この修復工事を皮切りに、その後10年間に渡って行われる都市環境整備事業によって、アレッツォの新しい顔が形作られていきます。

当時のピエール・ルドヴィコ・オッキーニ市長は、1930年代のアレッツォ現代史における復興の立役者と言われています。10メートルほどさらに高くなったボルグント塔は全長30メートルの高さになりますが、この記録は後に更新されることになります。
ボルグント塔
ボルグント通り
ボルグント塔(1925年)
ボルグント通り

エトルリア時代に町を守ってきた最も古い城壁にもたれるようにして建ち並ぶ家々の中に、ジラタスキ宮殿があります。16世紀の建造物に特徴づけられるように、1階部分の外壁が装飾された切り石積みの石壁で覆われ、さらにこの切り石積みが建物の角の1階から3階までを飾っています。

3階の窓は半円状のアーチ型になっており、窓じきいもまた切り石積みで装飾されています。聖画「マエスタ」が飾られた1階の壁龕には、最近まで15-16世紀に彫られた「聖母マリア」像が置かれていました。
ジラタスキ宮殿の壁龕
モンタウト伯爵邸の下を通るソット・ラ・ヴォルタ通り
ペッショーニ通りとグリエルモ・オベルダン通りをつなぐアップンテッラート小通り
ジラタスキ宮殿の壁龕
モンタウト伯爵邸の下を通るソット・ラ・ヴォルタ通り
ペッショーニ通りとグリエルモ・オベルダン通りをつなぐアップンテッラート小通り
ジラタスキ家の起源は非常に古く、中世初期から13世紀末期にかけて町の最も有力な貴族の一家でした。当時の宮殿は現在のペッショーニ通りからボルグント通りピアッジャ・サン・バルトロメオ通りを占めるほど広大で、主要玄関はピアッジャ・サン・バルトロメオ通りに面してありました。現在はわずかな残骸と、14世紀の八角形状の広い井戸しか残っていません。
ペッショーニ通りを挟んでジラタスキ宮殿の前には、モンタウト伯爵の邸宅が建っています。
エトルリア時代の城壁が残るピアッジャ・サン・バルトロメオ通りにあるサン・バルトロメオ教会は、おそらく古代の多神教時代の神殿の基壇だと思われる城壁の上に建っています。

教会は初代キリスト教時代、あるいは中世初期に建設され、中世に入ると数多くの芸術作品で教会内部が飾られました。しかし、1583年には既に教会の保存状態がかなり悪い状況に陥っていました。現在の外観は、16世紀末期から17世紀初期にかけて行われた修復によるものです。

小さな教会内には、最近修復されたアンドレア・ディ・ネリオの作と思われるフレスコ画群「聖トンマーゾ ・ディディモの生涯」が保存されています。聖水盤として使われていた7世紀の小さな柱状の物も残っており、おそらく最初の神殿にあったものと思われます。
サン・バルトロメオ教会
サン・バルトロメオ教会(16世紀末期-17世紀初期)

サン・ニッコロ広場から見ると切妻屋根と分かる邸宅は、サン・ニッコロ通りに面した建物正面から過去に何度も改築が繰り返されてきたことが読み取れます。

建物正面の軒下は広い空間となっており、明かり取り用の半円アーチの両側には貴族の紋章が飾られています。

玄関を覆っている木製の軒蛇腹がかなり突き出ていますが、建築学上非常に価値の高いものです。歴史研究家アンジェロ・タフィによれば、玄関扉は14世紀に造られました。建物内部の交差ヴォールトは、煉瓦でできた独特のリブ構造に特徴づけられています。
サン・ニッコロ広場
サン・ニッコロ広場
サン・バルトロメオ教会のすぐ近くにあるサン・ニッコロ広場の付近で、考古学上非常に重要なエトルリア時代(紀元前4世紀)からルネサンス期までの城壁が発見されています。
フィレンツェ出身のアルベルティ家の邸宅だったアルベルティ宮殿(14世紀)は市の所有で、現在は「ジョストラ・デル・サラチーノ」の参加4地区の一つであるポルタ・クルチフェラ地区の本部となっています。ポルタ・クルチフェラ地区は、旧市街地の北東方面を占める地域です。
アルベルティ宮殿
ピアッジャ・サン・ロレンツォ通り
ウンベルト・タヴァンティ作「クルチフェラ門の風景画」
アルベルティ宮殿
ピアッジャ・サン・ロレンツォ通り
U.タヴァンティ作「クルチフェラ門の風景画」(1890年)

ピアッジャ・サン・ロレンツォ通りに面した建物正面には、2つの様式を持つ半円アーチの窓があります。彩色切り石で窓枠が飾られた2階の窓は、アレッツォの他の宮殿のファサードには見られない、非常にめずらしい建築様式の一例となっています。

地区の名前になっている「ポルタ・クルチフェラ」の城門は、現在のポルタ・クルチフェラ広場の東側にありました。当時の城門は天井が低くて狭かったことから、その代わりにより広い鉄柵を設けるために、1890年に城門が撤去されました。

ポルタ・クルチフェラ広場の周辺には、曲がりくねった小さな裏通りがたくさんあります。広場の名前は1870年まで広場の東側にあった城門の名前「ポルタ・クルチフェラ」から取りました。周辺の家々のバルコニーからは、古い城壁に囲まれた中世の美しい街並みや近郊の田園風景を楽しむことができます。

かつては田舎道だったデッレ・テルメ小通りの坂道を上っていくと、プラート公園メディチ家城塞に着きます。この裏通りに沿って広がるオリーブ畑で、19世紀半ばに古代ローマ時代の公衆浴場跡が発見されています。浴場跡から見つかった円柱1本と半分だけ残っていた半円柱1本は、デッレ・テルメ小通りに入る小道の入り口に飾られています。

デッ・ロルト小通りに沿って建ち並ぶ13世紀の煉瓦造りの家々は個人の住宅で、田舎道のように静かなデッ・ロルト小通りはデッレ・ムーラ通りに通じています。メディチ家時代の城壁に沿って伸びるデッレ・ムーラ通りは、ポルタ・クルチフェラ(コルチトローネ)広場からサン・ジュースト広場まで通じています。

その起源が13-14世紀まで遡るピアーナ通りは、サン・ジミニャーノ広場とフォンタネッラ通りをつないでいます。ヴァザーリによると、この通りには建物の張り出し部分にパッリ・ディ・スピネッロ作「受胎告知」が描かれた邸宅があったと記されています。
サン・ロレンツォ教会
サン・ロレンツォ教会(1932年)
サン・ロレンツォ通り
サン・ロレンツォ通り

サン・ロレンツォ通りからサン・ロレンツォ教会の後陣が見えますが、教会を言及している最初の資料によると、その起源は1025年まで遡ります。15-16世紀のルネサンス期の小さな邸宅も興味深いです。さらに20世紀初頭にこの通りの近くで、初代ローマ皇帝アウグストゥス帝時代の大理石製の美しい彫刻が発見されています。

かつてのサン・ロレンツォ通りは、デントロ・レ・ムーラ・ヴェッキア(古い城壁の中という意味)地区と呼ばれていました。サン・ロレンツォ教会横のデッラ・ミネルヴァ小通りですが、16世紀半ばに教会内にある地下の井戸からエトルリア時代の非常に美しいミネルヴァの青銅像が発見されたことから、その名前が通りに付けられました。
コルチトローネ広場のレプリカ像「ミネルヴァ」
コルチトローネ通りの城壁
デッレ・ムーラ通り
コルチトローネ広場のレプリカ像「ミネルヴァ」
コルチトローネ通りの城壁
デッレ・ムーラ通り
※アレッツォ市公式サイト「Turismo - La citta' nascosta」から引用
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