アレッツォ観光ガイド
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※写真・イラストは全てイメージです。ご旅行中に必ずしも同じ角度・高度・天候での風景をご覧いただけるとは限りませんのでご了承ください。
アレッツォの歴史

近世初期(1384-1530年)のアレッツォは、フィレンツェ共和国による新体制の下で抑圧された時代を生きました。流血でもって反乱が鎮圧されたり、事前に反乱が発覚して鎮圧されたりと、15世紀から16世紀初頭のアレッツォは町のあちこちで反乱が起きました。新体制の支配になじめずに、都市国家時代の体制に戻りたいと願う一族がいる一方で、一般庶民は宮殿内の陰謀には無関心でした。

しかしながら、経済・政治・文化の活動において、町や州の要職で活躍した人物もいました。15世紀前半のフィレンツェ共和国の書記官にアレッツォ出身者(レオナルド・ブルーニ、カルロ・マルスッピーニ、ベネデット・アッコルティ)が任命され、アレッツォ出身の企業家たち(ラッツァロ・ブラッチ、シモ・デリ・ウベルティーニ)もまた、当時のトスカーナ市場において中心的役割を担いました。

1490年の町の人口は4500人と、急激な人口減少と政治の衰退を迎える一方で、経済・文化はゆるやかに推移していきました。アレッツォの文化と芸術は、人文主義やルネサンスのみならず、マニエリスムの時代においても重要な意味を持っていました。1400-1500年代の建築技術は際立っており、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の回廊を始め、町の修道院の回廊付き中庭やバディア教会サンティッシマ・アヌンツィアータ教会サンタ・マリア・イン・グラディ教会、ヴァザーリの家グランデ広場フラテルニタ・デイ・ライチ宮殿ロッジア(回廊)宮殿プレトリオ宮殿メディチ家城塞がこの時期に建造されました。
ベノッツォ・ゴッツォリ作「聖フランチェスコの生涯」
ベノッツォ・ゴッツォリ作「聖フランチェスコの生涯」に描かれた15世紀のアレッツォの景観(1450-52年、モンテファルコのサン・フランチェスコ教会博物館所蔵)

絵画ではアレッツォ県サンセポルクロ出身のピエロ・デッラ・フランチェスカが描いた、サン・フランチェスコ教会のフレスコ画「聖十字架伝説」は、初期ルネサンス絵画の最高傑作の一つと言われています。

アレッツォ出身以外の芸術家では、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオとアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネにジュリアーノ・ダ・サンガッロ、ベネデット・ダ・マイアーノとジュリアーノ・ダ・マイアーノ、ベルナルド・ロッセリーノ、バルトロメオ・デッラ・ガッタ、ギョーム・ド・マルチラ、バルトロメオ・アンマンナーティが挙げられます。

アレッツォ出身の作家や学者、芸術家では、ピエトロ・アレティーノ、アンドレア・チェサルピーノ、ジョルジョ・ヴァザーリ、レオーネ・レオーニが活躍しました。15-16世紀に起きたトスカーナ方言を標準語にしようとする文化人の運動に、アレッツォも活発に参加しました。
近世後期(1531-1737年)のメディチ家の支配下で、トスカーナ大公国の体制に影響を受けながらも、町の政治・経済・文化は安定した時代を迎えます。重大な事件とも言えるアレッツォがメディチ家に服従したことは、当時のアレッツォの政治体制が地域社会の利害ではなく、フィレンツェ共和国の君主の利害と一致したことを意味します。
コジモ1世(在位:1537-74年)は、1538年に今日まで残っている城壁(8番目、全長4200メートル)を築き、4つの城門(サン・ロレンティーノ門サン・クレメンテ門クルチフェラ門サント・スピリト門)と7つの砦(サン・ロレンティーノ砦サン・クレメンテ砦、デル・トッリオーネ砦、サン・ジュースト砦、サン・ベルナルド砦、ポッジョ・デル・ソーレ砦、ポルタ・ブイア砦)を建てました。さらに城塞の再建築とグランデ広場ロッジア(回廊)宮殿の建築を命じるとともに、都市国家の象徴であったカピターノ・デル・ポポロ宮殿とコムーネ宮殿(通称トッレ・ロッサ宮殿)、ピオンタの丘の宗教施設(旧ドゥオーモなど)の破壊を命じました。
旧ドゥオーモの石碑
旧ドゥオーモの石碑(1561年、ピオンタの丘)
17世紀に入ると、町の経済・政治は衰退し、都市部(人口:約7000人)では商業や企業の活動が沈滞していきました。土地所有者である貴族社会によって支配されていた周辺の農村も同様で、農業が衰退し、ヴァルディキアーナ地方ではトスカーナ大公フェルディナンド1世(在位:1586-1609年)によって遂行されていた農地の開墾に難渋しました。医者、自然科学者で詩人でもあったフランチェスコ・レーディを除けば、この時代は文化的活動に乏しく、芸術分野においてもヴァザーリを模倣したマニエリスムの研究以外に際立った活動は見られませんでした。この時代の宗教・歴史建造物として、サン・イニャツォ教会やサン・セバスティアーノ教会、サン・ジュゼッペ教会バディア教会の鐘塔と偽クーポラ、グイッリキーニ宮殿が挙げられます。
カピターノ・デル・ポポロ宮殿の遺跡
トッレ・ロッサ宮殿の残骸のスケッチ画
カピターノ・デル・ポポロ宮殿の遺跡(ピレアーティ通り)
トッレ・ロッサ宮殿の残骸のスケッチ画(1756年、トッレ・ロッサ通り)

近代に入ると、トスカーナ大公国ハプスブルク-ロレーヌ家の時代(1737-1859年)を迎え、数々の啓蒙的改革が取り組まれました。レオポルド改革は土地所有者の貴族社会と町の労働者の反対に遭い、アレッツォ臣民に大きな失望をもたらしました。

改革への不満と地震(1796年2月1日発生)への恐怖が漂う中、1796年2月15日にヴェッキア通りの居酒屋の壁に飾られていた聖母マリア像に奇跡が起こります。余震が続く中で祈りを捧げていると、長年の煙と埃で黒ずんだ聖母マリア像が、突然輝くばかりの白さに変わったと伝えられています。

地震がもたらした経済危機と飢饉は、反ジャコバン主義運動に民衆を団結させ、当時町を占領していたフランス人の横柄さに我慢していた民衆を結集させ、「ビバ・マリア」蜂起(1799年5月6日-10月19日)を引き起こします。突然起きた激しい民衆の蜂起は大虐殺と破壊に変わり、略奪を行なったフランス人が勝利者として町に戻るという皮肉な結末で幕を閉じました。

5年間に渡るフランス人の支配の後、トスカーナ大公国ロレーヌ家(1814-59年)が復活し、短いながらも経済・文化が回復した時代を迎えますが、アレッツォ臣民は再び政治体制に失望させられます。(1849年2月12日に発布されたアルベルト憲法は、同年4月12日に廃止されました。)

1859年4月27日にトスカーナ大公レオポルド2世が退位させられた後、1860年3月12日に行われた国民投票の結果、トスカーナ大公国はサヴォイア王国に併合されました。この時点から、アレッツォはイタリア共和国の前身であるイタリア王国の一員となります。イタリア統一(町の人口:10737人、周辺の農村の人口:20069人)から1950年代まで、アレッツォは農業を中心に著しい発展を遂げました。
奇跡の「慰めの聖母マリア」像
奇跡の「慰めの聖母マリア」像(ドゥオーモ所蔵)
グランデ広場の「ビバ・マリア」蜂起
グランデ広場の「ビバ・マリア」蜂起(1800年)
サン・フランチェスコ広場の「ビバ・マリア」蜂起
サン・フランチェスコ広場の「ビバ・マリア」蜂起(1800年)

現代に入ると、町はメディチ家時代の城壁がそのまま保存された状態で、新たに道路(クリスピ通りやマルガリトーネ通り、ブルーノ・ブォッツィ大通り、マッテオッティ大通り)が開通され、公共事業の一環で公共施設のアレッツォ県庁舎や市民病院(1920-29年)、ブォン・リポーゾ水道橋(1925-28年)、アレッツォ中央郵便局(1924-29年)、クリスピ通りの公営住宅(1933-35年)、カンポ・ディ・マルテのマンチーニ競技場(1935年)、アレッツォ官庁舎(1939年)が次々と建設されました。

政治・社会・経済の近代化が進む中、アレッツォは第一次世界大戦(1919-24年)の劇的な政治紛争や労働争議に参加し、続いて第二次世界大戦とナチス占領下のレジスタンス運動(1943-44年)に貢献し、戦後は町の復興と再建に尽力しました。一方、グイド・モナコ通りの開通とグイド・モナコ広場の整備、ローマ通りとペトラルカ通りの横断道路開通、16世紀に築かれた城壁と城門の一部撤去など、19世紀末に大きく整備された町の外観が見直され、急速に町の都市化が進みました。

1950-60年代にかけての「イタリアの奇跡」と呼ばれる経済復興では、アレッツォの代表的企業であるゴリ&ズッキ社(ウノアエレ、1926年創業)や服飾メーカーのレボレ(1955年創業-2002年閉鎖)が飛躍的な発展を遂げるとともに、町の伝統産業である金銀細工の中小企業も、地元経済に大きく貢献しながら目覚しい発展を遂げました。
アレッツォ中央郵便局
アレッツォ官庁舎
アレッツォ中央郵便局(1924-29年、グイド・モナコ通り)
アレッツォ官庁舎(1939年、ポッジョ・デル・ソーレ通り)
※Cartaria Aretina出版「Arezzo Guida」から引用
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